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能瀬弘也の人生ノート

初めまして、能瀬 弘也と申します。

大阪で現在、ガレージシャッターを販売施工会社を経営させていたたいています。

現在58才、仕事と家庭と趣味に忙しくさせていただいています。ここでは私自身に起きた出来事と

今、この歴史的な大災害に直面し、大きく揺らぐ信念を取り戻したく

自分の頭の中を整理したいと考え、筆を取りました。

このきっかけをいただいた、山本様に感謝するとともに、そのノートに共感させていただいたご縁に

心からFBを初めてよかったと、思っております。「いいね!」革命でリンクを張っていただいた人たち

山本様の記事にたどりつけた幸せに共感でいっぱいです。

とはいえ、まだFBを初めて二カ月の新参者、失礼な物言い、不適切な言動があればご指摘、ご指導いただければ

幸いです。よろしくお願いいたします。

 

私は58年まえ、大阪のど真ん中、空堀商店街の小さな菓子販売店(だ菓子屋に毛が生えた程度)の

長男で生まれました。後親の店は市場内の店舗に移転、

ここで、周りの商店主たちの生き様と触れることとなります。

小さなころは「ポン」と呼ばれ、周りの親方衆に可愛がられました。

子供心に、「かっこいいなー」という感情がいつの間にか現れていました。

今から考えると、各商店主たちは、自分で決断し、自分で責任を負い、従業員を守り

共に成長していこうと、日々葛藤し、笑い、泣いていました。そんな人間臭さに引かれたのでしょう。

そして、私が中学に進むころには、漠然と夢を持つようになっていました。

それは「一国一条のあるじ」になる事。業種は極端な話、法に触れず、お巡りさんのお世話にならなければ

何でもよかった。そこで、親の店を手伝うにつれて、愕然としました。

食品販売は先行投資、いくつ売れるかわからないのに先に仕入、売れ残った分が純利益。

たとえば10万円で仕入れた100個商品を三日かけて店頭で販売、

三割の利益をのせて販売していても、三日目の夜、閉店近くに33個残っていたとします。今日で、賞味期限が切れる商品だとすると、この閉店1時間前ではいくら7万円近くの売り上げがあっても

大赤字、残りの33個を半値でさばくことは不可能、となると。三日間の努力は水の泡

それどころか、経費も考えると5万円の持ち出し。

この三日間の商店主の行動は、5万円浪費しただけという結果になります。

真剣に店を手伝う前は、常に身近にお金があり、何かお金持ちになったような気がして

楽しかったのですが、実感した日から考えが180度変わった事を覚えています。

そこから、商売の厳しさを実感するとともに

親のすごさ、親方衆のカッコよさが数倍になった事は確かです。

普通はここで「やっぱり、公務員や、大きい会社のサラリーマンが良いな」と思うのが普通ですがね(笑い)

そうこうしているうちに、私も大学生。

年末年始はもちろん、授業のない日やバイトのない日は店を手伝い。

挙句の果ては、隣近所の可愛がってもらっていた親方衆の店にも出入りし

方々で手伝い、また、いろんなところにつれていっいもらい、いろんな人と出会えました。

そんな時、隣の魚屋の親方が足を折り、その親方と一日密着、親方の足代わりとして過ごすことになりました。

その親方は、魚屋一軒と、鮨屋を二軒経営しているやり手で、昔から憧れていた人なので

私も、一日が楽しく、あっという間に過ごしていました。

その中でも、一番印象に残っているのが、中央市場の親方衆と出会えた事。

男気、責任感、頭の回転の速さ、交渉術、ユーモア、笑い、集団の力、団結力。

ものすごく個性と人間臭い集団ですが、いつの間にか引き込まれ、

気がつくと「シャーないな、あんたにはかなわんわ、よっしゃ、全部買うは、今度は覚えとけよ(*^_^*)」

と、笑いなが言わせる、大阪独特の笑いの中での交渉術を目の当たりにします。

このころに、今の妻と出会い、一番日々が新幹線のように過ぎていった頃です。

遠い親戚の猛反対を押しのけ、この鮨屋の親方にほぼ強制的に就職。

朝は早く中央市場に行き、昼間は魚屋、夜は鮨屋の若い衆で仕事をこなすハードな毎日。

でも、若さもあって、新鮮で楽しくて仕方がなかった事を覚えています。

鮨屋の立ちも任されるようになり、ふぐの調理師免許も取り

そして、結婚。結婚式で市場の親方衆は、カラオケするは花札ばくちするはハチャメチャ

もう、皆、泣くわ笑うは、酔っ払うは、どうして家まで帰ったかわからない始末です。

鮨屋で独立する夢を持つようになり、しばらくすると、周りの状況が変わり始めていました。

①冷蔵庫の革新的な進歩

従来の鮮魚の冷蔵庫では魚の鮮度が翌日には大きく下がるため

大量販売には向かず、個人商店の店頭販売が成果を上げていました。

ところが氷温冷蔵(パーシャル)が出てきた事で、大型店舗でも鮮魚の大量仕入大量販売が可能になった事

②車社会の台頭

大型店舗に大きな駐車場、そこに行けば何でもそろう便利さ、

一度に大量に買って、高性能な冷蔵庫で日持ちさせる。そんな生活スタイルへの変化。

店舗を構えるにあたり駐車場がなければ話にならず、資金の高騰

③回転すしの出現

鮨屋の板前である私が、子供にせがまれしぶしぶ

回転すしに言った時、愕然としました。「手軽で、安くて、何より旨い」

ここが、一番大きかったかもしれません。

そこで、10年以上修行した道をあきらめ、心機一転。

今のシャッター業界に飛び込みました。

理由は

①技術さえあれば店舗を構える必要なく、車と道具さえあれば稼げる事

②先行投資しなくても、良い事。 発注いただいてからの製作、施工だから材料ストックもいらない。

ほんとうに、文字通り飛びつきました。

妻には「私はお寿司屋さんのおかみさんになるのが夢だったのに」と

泣いて反対された事を覚えています。

その時思った事は、私は鮨屋の親方になるのが夢ではなかったのです。

私の夢は「一国一条のあるじ」 念願をかなえて店を持っても

近くに大型店舗や開店寿司ができれば、家族を幸せにすると事などかないません。

それどころか借金で家族はバラバラ、最悪のしなりをが読めてしまいました。

私の中で鮨屋に未練は不思議なほどありませんでした。

妻を泣かせた以上、もう後戻りはできない。この仕事で一人前になるので必死でした。

職人さんにべったりついて、仕事を文字通り「盗み」ました。

包丁しか持った事のない手が鉄を触るとすぐに切れて、

高下駄しかはいた事のない私が、5m近くの高いところに登り、グラグラ揺れる中での作業

「とんでもないところに首を突っ込んだ」と、正直思ったものです。

そんな姿を見て、妻も理解してくれるようななりました。

大手シャッターメーカーの専属の取り付け職人となり、そこそこ収入も安定。

景気も良かったので、家も建て替え。少し安堵したのもつかの間

バブルが崩壊しました。

今までちやほやしていたメーカーの態度が激変。

仕事量もへり、職人同士で仕事を取りあう始末。

そんな状況を利用して、メーカーは人件費のカットが横行。

ある日 150万の請求書に振り込まれていた金額に愕然。

60万程度しか振り込まれておらず。営業所に飛び込んだ時

公務かの課長が

「すまない。みんなに協力してもらっている。会社がつぶれたら元も子もない

駄目だったら言ってくれ、ほかに人ではいくらでもある。こらえてほしい」

その課長が、泣いていた事も忘れはしません。彼も会社員、大きな歯車の一つでしかなかったのです。

私は、帰りの車で悔しくて悔しくて、大声で叫び、おお泣きして、しばらく駐車場で車を降りることはできませんでした。

そこで、冷静になり、一生懸命に考えました。、必死に考えました。

ハッと気がつきました。

私は大手の傘に隠れる事で、ぬるま湯につかっていた事。

「変わりはいくらでもある」これでは競争に勝てない。

仕入価格も分かっている、エンドユーザにわたっている価格も分かっている。

幸い、工事の技術は誰にも負けない。仕事さえ取れれば、営業ができれば何とかなる。

以前から、最終販売価格にはびっくりしていました。

その莫大な利益の中には

数えきれない、人の手を通り、いろんな人の利益が載っている事はわかっていました。

でも、職人工事に追われ、営業は営業に追われ、

営業が工事までするなど考える人もいなかったのです。

そこで気がつきました。工事が暇なのだから営業すればいい。

ここで、子供の頃からの環境が走馬灯のように回りました。

しかし、世の中の常識はそう甘くはありません。

こんな私がどこに営業に行ったらいいのか、ノウハウが全くなかったのです。

実は、シャッターの職長を任された当時、忙しさと心労で気分が悪くなり

一週間ほど入院した事がありました。

その時、頭の血管がつまりかけ、一歩間違うと大変なことになっていたのです。

退院して、自宅療養していた時、飛び込みの営業が自宅に入ってきて

「ホームページを作りませんか」と言ってきました。

「悪徳商法とはこのことか」とおもいつつ、こんな事があったら家族が大変な事になると

半信半疑ながら、一つ作りました。その当時は、「インターネットは何者ぞ」

訳も分からず、言われるままに「とりあえずヤフーに登録しておきましょう、無料ですから」

当然、そのホームページから仕事など皆無、「やっぱりだまされた」と思っていました。

でもその頃は、仕事が忙しく、「これも一つの社会勉強」と軽く流していました。

時は流れ

営業マンが飛び込んできました。

なんでうちばっかりと考えると「タウンページ」に小さな広告を出していたからだと分かりました。

「能瀬さん、もったいない、シャッターで検索一位ですよ」

なんと、ヤフーでトップ掲載、しかも一位。その頃やっと今のFBのように注目され始めていたのです。

話を聞いているうちに、私も彼に話したいるうちに意気投合、

彼が、後日連れてきた技術者がまた熱い男で早速、HP製作に入りました。

コンセプトは、知識の無いエンドユーザに支持してもらえるHP

押しつけではなく、上からではなく。すぐリアクションしたくなるようなHP

私たち職人や技術者は固定観念、知識が邪魔をしてエンドユーザーから見ればば

分かりにくい言葉や、説明の簡素化、知らず知らずに距離が生まれているものです。

そこで、議論を重ねました。

彼にはITの譲れぬところがあり、私もシャッターの知識で譲れぬところがありました。

会社や自宅で声を荒げることしばしば、でも、二人とも分かっていました。

「いいものを作りたい」この思いがかろうじて二人を支えていたのかもしれません。

こうして、一年半の年月の上出来上がったのが「シャッター.JP」 https://www.shutter.jp

個人が、このドメインを所有するのは奇跡だそうです。

このころにはヤフー登録すら難しくなっていました。

これがアップされた時は忘れもしません。絶対に仕事が出でくると確信がありました。

案の定、一週間で手帳は真黒、半年で製作費150万は焼却できました。

ここでもヤフーの順位のぬるま湯につかっていたのではいけないと

新たに「JOYシャッター」 https://www.joyshutter.jp

SEOも勉強し、なんとか「シャッター」検索トップページにとどまっています。

現在は関西中心ですが、いずれは関東にも攻めていきたいのですが

こちらをまかせるだけの人材が育っておらず、これもまたもったいない話です。

「JOYシャッター」のアップ後しばらくすると

この製作会社が倒産、ドメイン管理とサポートを移行した会社も倒産。

今は、サーバーを持っている大名会社とサポート契約をしているのですが

先日も、「オリジナルの掲示板を作りたい」と連絡すると

15万の見積もりだけがFAXされてきました。

「あほか(--〆)」 と少し調べると 三日で出来ました。

あの熱い男たちは、今どこにいるのでしょうか。

インターネットとはもっともっと力があります。

個人や中小企業にとってビジネスチャンスの宝庫。

非常識にこそチャンスが潜んでいます。固定概念を崩すことに

今の日本の状況変えるエネルギーが潜んでいます。

その案内者として熱い男たちの復活を望みたいものです。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

このノートをかくきっかけをくださった山本様に感謝するとともに

「いいね!」革命の同志たちと知り合え、交流する事で

1人でも優れた企業家のお役にたてれば、何よりと考えます。

ITのひずみに隠れている熱い男たちに感謝し

多くの賢者たちが、再び喜びを持って復活してくる事を心から

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